前回、書きそびれた、芭蕉の俳句超え、芸術超えについて、
今回は、書いてこう!
俳句の観点、芸術の観点から観ていくだけでは、
掴みきれるわけがないその境地、
丁度、表現とエネルギーの話をしてきたところなので、
タイミングがいいのかな?って。
芭蕉の話をするには、どうしたって、
表現すること自体の問題がつきまとう。
つまりは、人間という問題でもある。
何故、表現するのか?
何を表現するのか?
どう表現するのか?
これらはよくある問い。
それらをあっさり超えて、
表現て何?って問題。
よって、俳句というジャンルや、
あらゆる芸術分野を超えてとらえないとあかん。
有名な、
古池や 蛙飛び込む 水の音
この一句だけで十分だ。
表現以前が表現された。
普通、表現は、時空間をキャンパスに、
主観で、主観を描く。
しかし、この一句は、主観無く、
時間、空間に分かれる前のキャンパスだけを表現した。
大枠だけ。
普通、この後を表現で埋める。
古池や~で、普通はその空間を思い浮かべるだろう。
それも間違いではないが、
むしろ永遠という古くならない時間を観せている。
逆に、蛙飛び込む 水の音で、
刹那に響く、無限空間を聴かせている。
時間と空間に別れていないからこそ、
そのような表現が可能、というより、
無限、永遠を表現するにはそれしかない。
無限と永遠は同じものの空間的表現と時間的表現だ。
時間と空間に分かれない時空間、
それより以前の 間 。
言葉と表現につきまとう、2元性、
これをどう超えるか?
この表現にそもそもある問題に、自覚的なのだ。
単に、直観的とかではない。
俳句の才能ということでは、
旬の身体の直観性と、言葉のチョイスのセンスなどがあれば
天才的だろう。
そして、表現 する 極みに進むことも出来る。
でも、芭蕉のは、表現するという意味では、
表現していない。
直覚的かつ、深考的、
この深考ってのも、もっと他にいい言葉はないのか?
僕としてもしっくりこないが、、、
少ない言葉で表現するとかとも違う。
俳句自体、世界一短い詩と言われてる。
その少ない言葉より少ないとも言える。
表現以前だから。
日本的な、ワビサビでも語れない。
どこにもそんな、侘しい感じもないし、
寂しい感じもない。
主観的な情緒など、 無い 。
超個性が、単なる事物として現れた、
つまりは、実際の事実のそのままの表現であり、
表現したからこそ、事実としての永遠、無限が、
永遠、無限に封印された。
古くならない新鮮パック。
これは表現における発明なのだろう。
永遠、無限でないものを残すための表現ではない。
封印された人間が、封印されてる事を
露にしてしまってる、つまりは自己表現ではなく、
封印から外れた事を封印した表現。
芭蕉自体は、勿論、表現界、つまりどプラス界を超えた存在だ。
表現者であることへのこだわりの為、
レベルを落としている事は、否めない。
が、出た結果としての表現のレベルが、表現界ではなく、
自然なエネルギー界だ。
更に、当人はもっと上のレベルの境地だろう。
普通、芸術は、以前話した光レベルでも上々だ。
表現する必要のない人だからこそ出来た表現なのかもしれない。
当人が、詩に詠まれるレベルだったろう。
表現者である以前の、実際の自分の在り様、
既に表現してしまっていること。
それに気付かなければ、本来の存在レベルを上げれない。
表現は必ず、それ以下になる。
表現をあれこれしてもね。
問題は、、、己だ。
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