僕としては、体のタイプ別を探求してくなかで、
困った結論に至った。
人間の体が、1種類しかないという事、つまり分類無し、分類ゼロ。
分けるって、2以上じゃないと話にならない。
相対観も1にまとめるのは、向いてない。その為のものではない。
1種類じゃ話が拡がらない。
このタイプはこれこれで、あーなんだとか、こんな違いがあるとか、
私はそのタイプだな、とか、分類あっての事なのだ。
だから、何で分類が無いかの説明話になってしまう。
ただ、分類がゼロなだけでなく、事実、ゼロな体だ。
1な体ではない。
ゼロな体がどう歪んでいくか?
ゼロな体が在るからこそ、歪みも有り、苦しみも有る。
また、ゼロな体が分かるからこそ、歪みも見える。
歪みのバリエーションも、歪みの奥行きも。
僕が、勝手に尊敬してる野口晴哉の体癖論も、12種類の分類だ。
腰椎の傾向から分類してるが、僕は腰は無い、無腰 前提だから、
この分類とも違うのは当然だが、野口先生は、体癖、癖と言っている。
僕のは、それなら、体 論なのだ。
癖の無いゼロの体、だから僕は、本来の体と呼んでいる。
理想としての体ではない。向かっていく先ではないのだ。
それからそうでなくなっていくもとなのだ、むしろ。
そうなんだから仕方がないもんだ。
現実を見ていないかの様に思われたりもするが、
現実を見るためにも必要な概念というより事実だ。
例え、目の前に本来の体がなくても、見当たらなくても。
現実を見るという、遅れた対応では現実すら見れない。
現に、本来の体を見つけられてないのだから。
いくら現実を見ていても、見つけられる訳がない。
現実には無いのだから。
現実に有るのは、ほぼ歪みのみなのだ。
で、それが歪みなのは、本来の体が在るからこそで、
このこと自体が、見つからない事が、その証明なのだ。
そして、これは理想でも、概念でもないから、
それにより、自由自在に歪みを観れるのだ。
本来の体が判らないから、理想や概念が必要なのだ。
計る物差しとして、無いものと比較するわけだ。
こういうのが正しいとか、こうなってると歪みだ、とか。
が、しかしこれは、囚われた目で見ることだ。
が、仕方ない、基準がないのだから。
本来の体は、厳密には1種類の2バージョンだ。
今回は体の分類の話だったから、本来の体一つだったが、
別の体の意味だと、10の体に分類してることを、
このblogでも以前に書いた。
更に、本来の存在と云うのも在る。
また、いずれかの機会にでも。
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